きっかけは、いまや年末の風物詩ともなったスポーツドキュメンタリー『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』(TBS系列)。
くだんの番組を偶然観ていた関係者からのスカウトという異例すぎるプロセスを経て海を渡った中後悠平が、このほど日本に“凱旋(がいせん)”した。
もし昇格が実現すれば史上初の快挙でもあった戦力外通告からのメジャー挑戦。メジャーとの歴然とした待遇差をして「ハンバーガー・リーグ」とも称されるマイナーリーグで単身もまれた3年間の戦いの軌跡を、本拠地・横浜スタジアムに直接本人を訪ねて聞いてきた──。
トライアウトからの起死回生
中後:日本ってこんなに暑かったでしたっけ? しんどさで言ったら50℃とかにもなるフェニックス(アリゾナ州都)のほうが全然マシっすね(笑)。
3年ぶりの“復帰登板”を果たした7月20日の対阪神タイガース12回戦(横浜スタジアム)のちょうど翌日。練習前の時間を利用して取材に応じてくれた中後は、背番号「91」のまだ見慣れない“横浜ブルー”のユニフォームに身をつつんで、ぼくらの前に現れた。
千葉ロッテの中でも抜群のスライダーをもつ変則サイドスローのサウスポー。「変則左腕」に目がないロマン重視派のロッテバカであるぼくにとっても、彼はとりわけ思い入れのある選手のひとりだった。
1死満塁からの2者連続三振という衝撃的なデビューを飾った2012年のプロ初登板には、人一倍歓喜をしたし、3連続四死球という結果に終わった15年の合同トライアウトでは、現地で一緒に取材をしていた同業者の知人たちからも本気で慰められるほどに落胆した。
あのとき、会場だった静岡・草薙球場のバックヤードでコメントを求めたぼくに、「この世の終わり」ぐらいの悲壮感を漂わせて「これがいまの僕の実力なんで……」と絞り出すのが精一杯だったその彼が、またふたたび現役のプロ野球選手として日本の球場でプレーする。
それがまず、自分ごとのようにうれしかった。
▲「アリゾナ以上」と語る夏の日差しが降りそそぐ横浜スタジアムにて
日本食に飢えすぎて、まさかの体重減
中後:僕もうれしいですよ。「日本でまた投げたい」って気持ちはずっとあったんで、アメリカでちゃんと野球やってきてよかったなって。「3年ぶり」って言われてますけど、ロッテでの最後の年は、一度も1軍で投げてないんで、実質4年ぶり。短いようで、長かったですからね。
渡米1年目の16年シーズンには、アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のAAA、リノ・エーシズで13試合連続無失点をマークし、翌年にもAA、ジャクソン・ジェネラルズで自己最多の50試合(AAAでの2試合含む)に登板して、防御率2.53と結果を出した。
だが、そこはあくまで「マイナーリーグ」。環境的にも決して「恵まれた」とは言えない異国での生活は日々の食事だけをとっても、想像以上の負荷を強いられた。
中後:アメリカに行ったら太る、とかよく言われますけど、僕の場合は全然そんなことなくて、毎年シーズンが始まると、5〜7kgは減ってましたね。試合は全部ナイターなんで、球場に行けば、練習後の軽食と試合後の晩ご飯の2食は必ず食べられるんですけど、当然そこには日本食なんてないわけで……。毎日同じようなものばっかり出されると、食べようとしても、すぐお腹いっぱいになって、身体が受けつけなくなるんです。メキシコとか中南米から来てる選手にしてみたら、僕らにとってのご飯と味噌汁がタコスかもしれないけど、サルサソースやバーベキューソースの料理ばっかりだと、さすがにしんどくなりますから。
彼が長く所属したAAの本拠地、テネシー州ジャクソンは、映画にもなったベストセラーで知られるあのマディソン郡の郡都でもある地方都市。同州最大の都市メンフィスからも車で1時間半はかかる人口6万人足らずの田舎町では、食事ひとつも多くを望めないのが実情だった。
中後:街には中国系の方が経営されてる日本食レストランが一軒だけあったんで、自分でとらなきゃいけない朝昼兼用の食事はほぼ毎日、そこで食べてました。ただ、寿司やラーメン、定食までひと通りメニューはそろってるんですけど、ご飯が水分のないパラパラ系だったり、味つけが濃すぎたり、僕らからするとやっぱりどこか物足りない。いろいろ不満を抱えながらも、それでも“それっぽい”ものが食べたくて通ってたんです。あまりに常連になりすぎて、お店の人からも言われましたからね。「やっぱ日本人は、日本食好きやねんなぁ」って。もちろんそこは「いや、俺の好きな日本食とは全然違うねんで」とは言いましたけど(笑)。
▲渡米中も日本での拠点は自宅のある神奈川県内。“地の利”は大きい
渡米で気づいたケアの重要性
ところで、ロッテ時代の中後は、ルーキーイヤーの27試合/20.1イニングが1軍登板でのキャリアハイ。2軍での成績を含めても、29試合/63イニング(1軍登板は5試合/4イニング)を投げた14年シーズンが最高と、実戦経験がそこまで多くない投手だった。
そんな彼が、4月から9月まで、みっちり5カ月間は続く容赦ない長距離移動と過密スケジュールのなかで、ひとつの試金石となる50試合、67イニングの自己最多登板をクリアしたとなれば、これはもうある種の“事件”。
メジャー昇格をも射程にとらえるほどに勝ちえた信頼と、そこに残った「数字」は、当の本人にとってもかなりの自信になったに違いない。
中後:日本にいたときは人数の関係もあって、ファームでもそんなに投げられなかったから、やっぱりそこは自信にはなりました。僕の持ち味であるスライダー主体のスタイルっていうのは向こうでもまったく変えてなかったんですけど、それで2年目に壁にぶつかって……。いま思えば、そのときにピッチングコーチが「せっかくチェンジアップもあるんやったら、それも武器にしないと」って言ってくれたのが、すごい大きかったような気がします。ブルペンでは投げてたから、「明日の試合は、スライダーを使わずにチェンジアップ主体で行ってみろ」って感じで背中を押してくれてね。日本ではほとんど投げたことがなかったツーシームやチェンジアップを、そこでやっと自分の引きだしにできたんです。
今季は前年より大きく成績を落とし、それが契約解除にもつながったが、それでも6月までに24試合/34イニングと、実戦のマウンドには立ち続けた。大きな故障もなく投げ続けるそのタフネスは、彼のような中継ぎ投手にはなによりのアドバンテージと言ってもいいだろう。
中後:向こうはあれだけの階級があるから、各チームに1人ずつしかトレーナーもいないんです。なんで、よっぽどなけがしてる選手でもないかぎりは、基本は自分でやらなきゃいけない。ホンマにしんどいときとかは僕もさすがに診てもらったりはしましたけど、この3年で、単なる自己流ではなく身体の仕組みから考えてケアをするようになったっていうのは、自分のなかでもかなりのプラスにはなったかなと。こっちに帰ってきてベイスターズのトレーナーさんたちといろいろ話しても、また新たな発見がありますし、今後もそうやってどんどん吸収していきたいと思ってます。
日本球界へアジャストしていくために
来日した助っ人外国人の大多数がそうであるように、ほんの数カ月前まで海の向こうを主戦場にしてきた中後が、日本の気候、マウンド、ボールにいきなりアジャストするのは、決して容易なことではないはずだ。
だが、それを言い訳にしてしまっては、プロの名折れ。そのことを重々わかっているからこそ、当の本人もたとえ打たれたとしても、「やるしかない」と前を向く。
中後:アメリカと違って日本はやっぱり湿気もあるから、とくにボールは「違和感がない」と言ったらウソになりますよね。初登板の日も右バッターにはチェンジアップを多投しましたけど、ちょっと引っかかるっていうか、うまいこと抜けてくれない感覚はまだありましたし……。でもまぁ、そこは慣れていくしかしょうがない。ちゃんと対応できない選手に明日は来ないっていうのは、僕自身、身をもって感じてきたことでもありますから。
▲15年のトライアウト。テレビカメラの密着が運命を変えた(撮影:石渡史暁)
メジャーリーガーとして活躍した日本人選手の、本来的な意味での“凱旋”と中後のそれとは、実績やファンの期待値から言っても、まったく異なるものだろう。
コントロールはお世辞にもいいとは言えないし、フルカウントからの四球もしばしば。典型的な「劇場型」である彼のピッチングは、おそらく今後も見るものの心臓にすこぶる負担をかけてしまうはずである。
だが、バッターが打席で「してやられた!」という表情を浮かべるほどにズバッと決まったときの彼のスライダーは、ほれぼれするほどの孤を描く。ひいき目を抜きにしてもそれだけでも見る価値のある、お金のとれる変化球だと断言したっていいほどだ(どこから目線なんだ、というツッコミはさておくとして)。
思えば、彼、中後の運命を分けたかのトライアウトでは、タイガースを戦力外となった同じ元ロッテ、同じ左腕の加藤康介(現・BC福島・投手コーチ)が地元出身選手としてひときわ大きな声援を浴びていた。
加藤と言えば、横浜、オリックスでの2度の戦力外通告を経て、4球団目の阪神で内角攻めで水を得た「左殺し」の苦労人。そんな加藤のようなもうひと花を、ロマンのかたまり、中後悠平が咲かせてくれることを、ロッテファンのひとりとしても願わずにはいられない──。
書いた人:鈴木長月
1979年、大阪府生まれ。関西学院大学卒。実話誌の編集を経て、ライターとして独立。現在は、スポーツや映画をはじめ、サブカルチャー的なあらゆる分野で雑文・駄文を書き散らす日々。野球は大の千葉ロッテファン。
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