私が「おやじ」に戻る場所──野毛という街と、12年歩んできた

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「野毛」との出会いが、私の日常を変えた

地下通路を抜けると、私の心はおやじに戻る。 

 

かれこれ16年ほど前、私は1歳と2歳の子どもを連れてシングルマザーになった。

幸せとは言い難い結婚生活から解放され、ささやかながら幸せに満ちた3人暮らし。ただ、たいしたキャリアもなく、幼すぎる子を持つひとり親は、何枚履歴書を書いても正社員として迎え入れてくれる会社とは出会えず、結局4つのアルバイトを掛け持ちしながら子どもを育てる日々が続いていた。

 

働くか、子どもと過ごすか──その2つだけで構成された毎日。

束の間の休息は、子どもたちの寝顔を見ながら飲む1本の缶ビール。切り詰めた生活の中で、自分に与えた唯一の贅沢品だった。 

 

そんな生活が4年目に突入したある日、私の日常を変える出来事が起きる。

JR桜木町駅の南側に広がる飲み屋街、「野毛」との出会いだ。それから12年、私を支え続けた野毛という街について話したいと思う。

 

誰でも温かく迎え入れてくれる街

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江戸時代、小さな漁村だった野毛は、開港とともに繁華街へと発展を遂げる。

戦後には「野毛に来れば何でもそろう」といわれるほど充実したヤミ市が形成されて街の復興を支えたそうだ。

月日は流れ、ヤミ市は次第にすたれて飲食店だけが残り、高度経済成長期には港湾や工業地帯で働く労働者や工場の従業員が集う歓楽街へと姿を変える。現在に通じる「おやじの街 野毛」のはじまりである。

 

一方で、関東大震災や横浜大空襲で再建を余儀なくされてきた街でもある。

戦後も、近隣の労働環境や乗り入れ路線の変化などによって、幾度となく存続の危機に直面したそうだ。

 

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それらを乗り越えた強さなのか、成り立ちから来るものなのか、どこか懐かしさも感じる気取らない空気と、どんなときでも温かく迎え入れてくれる懐の広さが、野毛にはある。

私のような者がひとりふらりと訪れても、「おつかれさま」「おかえり」と、まるで家族のように迎えてくれるのである。

 

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行きつけのひとつである「居酒屋 トモ」も、そんな温もり溢れる店。

 

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▲ある日サービスで出された「食用ほおずき」

 

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▲名物・おまかせハムカツ(600円)。ハムカツ自体のボリュームもすごいが、「おまけ」もてんこ盛りだ

 

店主のトモさんがつくる家庭料理を安値で食べられるのも魅力だが、珍しい食材が手に入るとみんなに振舞ってくれたり、ふんだんに「おまけ」のついたメニューがあったりと、とにかくサービス精神が旺盛なのだ。

客の健康まで気づかってくれて、あれやこれやと世話を焼く親心にちょっと近いような気もする。

 

偶然隣り合ったもの同士、自然と打ち解ける酒場文化

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▲トモさんと夫のケイさん。夫婦で切り盛りしているからか、実家のような居心地の良さがある

 

客同士も、まるでかねてからの友人や親戚かのようにすぐ打ち解ける。

これは「居酒屋 トモ」に限ったことではなく、野毛の酒場には偶然隣り合ったもの同士に自然と交流が生まれる文化がある。

他愛もない話題で笑いあうような、ただその場の楽しさを分かち合う一期一会のひととき。友人や仕事仲間と飲むときとはまた違った気楽さがあり、素のままでいられる空間が、そこにはあるのだ。

 

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離婚したことが間違いだったと思ったことはないけれど、ひとりで子どもたちを育て上げることに不安がないわけではなかった。

でも、自分で決めた道だからと、弱音もはけず、父親のように働いて、母親として子どもたちを守ることで必死だった私に、野毛に流れる時間は「自分」を与えてくれたのである。

  

母ちゃんだって飲みたい

世間的には、子どもを預けて飲みに出る母親は「ダメ親」との烙印を押されるのだろう。シングルマザーなら、なおのこと。事実、仕事上の付き合いですら、まわりから「母親なのに」「ひとり親なのに」といわんばかりの圧を感じたこともある。

 

「普段きちんと子育てしているんだから、たまに外で飲むくらいいいじゃないか」

 

心の中ではそう思うけれど、周囲の目に、子どもたちを実家に預けている罪悪感も手伝って、野毛と出会う前の私は外の世界から足が遠のいていた。

きっとそんな母親は私だけではないだろう。

 

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でも、野毛は違った。

さまざまなバックグラウンドを持つ人が集まる街だからか、シングルマザーでも、女性らしからぬ仕事をしていても、そのままの私で受け入れてくれたのだ。一期一会の出会い然り、各店の店主やスタッフさん然り。

だから弱音をポロっと口にできたりもして、店を出るころには、心に棲み着くウジウジ悩み虫が駆除されている。自分の知らない世界の話を聞いたり、お腹を抱えて笑ったりすると、どこからともなく元気が湧いてきたりもした。

 

現実逃避といわれればそれまでだけど、自分の弱さを認めて、ちょっぴり強くなれたような気持ちを携えて家に帰る。そんな時間が、当時の私には必要だったんだと思う。

 

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時間的にも経済的にもたまにしか行けなかったけれど、行き詰まったときに足を向けると、気持ちを切り替えて現実や子どもたちと向き合えるようになれた。

そんな付き合い方をするうちに、いつしか野毛は、私にとって「一家を支える父親」の自分を開放できる場所となり、仕事帰りのフラリーマンよろしく、「私の中のおやじ」が憩うための街となっていたのだ。

 

訪れるものそれぞれの野毛がある

では、なぜ野毛だったのか。

それは、野毛には「はしご酒」を楽しむムードがあるからだ。たとえ1杯でサクッと切り上げても「行ってらっしゃい!」と気持ちよく送り出してくれる店が多いのである。

そのおかげで、仕事帰りに寄り道しても30分足らずで済み、飲み会に参加するときほどの罪悪感に駆られることはない。リーズナブルな店が多いことも、シングルマザーの懐にはありがたかった。

 

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やがて顔見知りが増えてくると、表情から気持ちを汲んで声をかけてくれる人もできて、そんなさりげない気遣いが心にしみることも少なくなかった。

根掘り葉掘り聞かれることも、やたらと正論を振りかざされることもなく、それぞれが自由を持ち寄ってマイペースに飲む空間。

立場や世間体を気にすることなく自分らしくいられる場所は、父母一人二役で駆け抜けなければいけなかった日々のオアシスだったのかもしれない。

 

行きたい店はまだまだ尽きない

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そしてようやく生活が落ち着き始めた今は、これまで支えてくれたことへの感謝や、かつて1杯ほどで店を後にした申し訳なさを、自分なりのスタイルで返している(つもりの)飲み方へと変わりつつある。

当時はできなかったはしご酒を楽しんだり、野毛に興味を持つ友人たちを案内したり。

 

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かつては現実逃避の縁だった偶然の出会いも、あるときは飲み歩きの大好きなサラリーマンと野毛の飲み屋談義をし、またあるときは仕事仲間の集いに混ぜてもらって一緒にはしごするなど、野毛開拓につながる機会になることも増えた。

ここには600店舗近い飲み屋があるというから、行きたい店はまだまだ尽きない。

 

ただ、人生の移ろいとともに飲み方は変わっても、野毛が素の私に戻れる場所であることに変わりはない。

だから今日も、当時のようにおやじに戻って、ジョッキを握りしめるのだ。

 

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これはあくまでも、私が過ごした野毛との12年のあらましに過ぎない。

野毛は本当に奥が深く、私ごときでは語れないディープな味わいがある。一方で、最近は若者向けのおしゃれなバーが増えたりもしていて、それぞれが等身大の自分で飲める街なのだ。

だから、訪れる人の数だけ野毛の楽しみ方があり、魅力があるはず。いつか野毛で偶然出会ったときには、アナタと野毛の思い出も聞かせてもらえたらと思う。

 

お店情報 

居酒屋 トモ

住所/神奈川横浜市中区野毛町1-45 第2港興産ビル2F
電話番号/045-231-5712
営業時間/15:00~25:00
定休日/無休

www.hotpepper.jp

 

書いた人:千葉こころ

千葉こころ

自由とビールとMr.Childrenをこよなく愛するフリーライター。旺盛な食欲と好奇心を武器に、人生を楽しむことに全力を注いで滑走中。

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