マンボウはどんな味がするのか?クリティカル・フード・アタック ~極めて大胆不敵な食事~ Vol.2「マンボウ・アタック」

齢三十五を数えたあたりから、食事に関し「保守」に走り始めている自分に気付いたワクサカソウヘイ。これは彼がさまざまな未食に挑戦し、「食事のリベラル性」を取り戻すまでの過程を描くルポ・エッセイシリーズである。

私の舌は、もう何年も「保守」に陥っている。
気付けば毎日、繰り返すように同じような肉、同じような魚、同じような野菜を摂取し続けている。目新しい調理法に挑戦することもなく、革新的な味覚によって脳を刺激することもなく、つまらなそうに箸をたぐる日々を重ねている。

こんなことではいけない。はたと気付き、私は「未食を巡る冒険」におそるおそる足を踏み出すことにした。個人的にこれまで口にしたことのないフードへと手を伸ばし、「保守」に染まった自分の舌にアタックをかける旅である。

ところがその挑戦を初めてすぐの春先、「まん延防止」なるワードが世にはびこり始めた。
通称「まん防」は外食のタイミングを失わせ、私はすぐさま窮地へと追い込まれた。
「食べたことのないものを食べる」ためには、「訪れたことのない飲食店を訪れる」のが何よりも手っ取り早い。ミャンマー料理やジビエ料理、それから抹茶小倉スパにキジ鍋に分子ガストロノミーなど。外食とは未食の宝庫である。しかし、現状はその外食がちょっと厳しい感じになってしまったのだ。

こうなれば自宅で何か未経験の食材を取り寄せ、それを自分で調理することになるわけだが、一体何をセレクトすればいいのか。食事に対するリベラル性が衰えてしまっている身としては、ゼロから自炊アイデアをひねり出すことがまず困難なのである。ああ、恨めしきは「まん防」なり。

まん防、まん防、まんぼう、マンぼう、マンボウ……。
マンボウ……?
そういえば、私はマンボウをまだ食べたことがない。魚類の、あのマンボウである。

ふと、幼き日の記憶をよみがえらせる。東北への出張から帰ってきた父が、当時小学生だった私にこんな土産話をこぼしたことがある。

仙台が地元の同僚の実家に招かれて、マンボウの肉というのを初めて食べてきた。見た目はホタテだったんだけど、味はまさしく『マンボウ』としか形容のできないものだったよ」と。

そうだ、マンボウは地域によっては普通にスーパーなどで売られているとも、その時に聞いた。「同僚の実家で食べた」ということは、自宅でも調理可能な食材なのだろう。

 

 

マンボウというのは不思議な魚だ。水族館で見かけるたび、その水槽の前でついずっと立ち止まってしまう、一種異様な形状の魅力に満ちた生き物である。まるで半身でカットされたかのように、尾ビレがなく、体の後ろ半分がスッと丸みを帯びている。舵ビレというそうだ。

泳ぎ方も独特で、全身をゆっくりと震わせるようにして前へと進む。水族館の水槽で見るかぎり、かなりスローモーな泳ぎで、たまに横になったり斜めになったりしながら前へと進んでいる。

 

 

▲マンボウとはよく目が合う、気がする

 

妙に愛らしい、つぶらな瞳も独特だ。見れば見るほど、惹き込まれてしまう表情をしている。生態やエピソードも変わっていて、有名なところでは「3億個もの卵を産み、その中で大人に成長するのは1匹から2匹」なんてものがあるけれども、本当に3億もの卵を一度に産んでいるのかどうかはまだ誰も確かめたことがないという。マンボウにまつわるよもやま話は、あらゆる面からファクトチェックが必要だと聞いたこともある。

そんなマンボウの、肉の味のファクトチェックを自分の舌でやってみたい。
果たして「マンボウとしか形容のできない味」とは、一体いかなるものなのか。小学生の頃からうっすらと頭に漂わせていた疑問を、いまこのまん防のタイミングで昇華するべきなのではないか。

気付けば、めちゃくちゃマンボウを食べたくなっている自分がいた。
すぐにインターネットを開き、「マンボウ 取り寄せ」で検索した。すると数店舗だけだったが、マンボウの肉をネット販売で取り扱っている鮮魚店が見つかった。その中から高知県のお店を選び、注文しようとする。するとこんなただし書きが画面にあらわれた。

 

「マンボウは入荷が不安定なため、発送時期が1カ月ほどかかる場合がございます」

 

おお、そうなのか。マンボウは動きが読めない存在なのだな。待とう、マンボウが自宅に届くのなら、いくらでも待とうではないか。動きがゆっくりとしているマンボウなのだから、到着もゆっくりで問題ない。覚悟を決めて、注文クリックを押す。

そうしたら2日後にはマンボウが届いた。早い。体感としては、ほとんど光速だ。
マンボウ、本当に動きが読めないではないか。

 

 

およそ1kgもの白き肉塊である。背中周りの白身、そして腸がごっそりとわが家のテーブルに広がる。

 

▲おそらく背びれ付近の肉

 

肉薄すれば、まるで脳みそのように皺(しわ)が折り重なっている。繊維質が詰まっているということだろうか。こんな謎の質感の魚肉、見たことがない。

そして、やけに水っぽい。指の腹でなでるとプニプニとしていて、まるでスライムのごとき触感である。父が「見た目はホタテのようだった」と語っていたのもうなずける。まな板の上に、水分がしたたり落ちていく。ここまで水っぽい魚肉も、出合ったことがない。

 

 

なによりも驚いたのは、腸である。マンボウの腸、でかい。魚の腸って、こんなに大きかったっけ……? というよりも、魚の腸を単体で味わったことがそもそもこれまでにない気がする。あ、でも「マグロのモツ煮」というのはどこかの居酒屋のメニューで見かけたことはあるな。なるほど、体の大きな魚であれば、腸は可食に足りるということなのだろう。それにしても、マンボウの腸は、ほとんど牛の腸である。

これを一体、どのようにして調理すれば正解なのか。マンボウは何で食べるのが最もおいしいのか。まったく見当が付かなかったので、とりあえず「マンボウ レシピ」でネット検索すると、どうやら刺身でいけるっぽい。ただ、予測検索に「マンボウ レシピ 寄生虫」という穏やかでないワードが挙がっていたので、白身は熱を通した湯霜(ゆしも)造りにすることにした。

 

 

薄く切り分けたマンボウの白身をサッと熱湯で湯通しして、氷水でしめる。味付けはポン酢。小ねぎを散らせば、なんだか「イケてる」見た目の湯霜造りの完成だ。

 

▲マンボウの湯霜造り

 

それから「見た目がホタテに似ているのだから、貝料理的なアレンジも合うのでは」という右脳だけのアイデアで、アヒージョ風の煮込み調理にも挑戦してみる。

 

 

オリーブオイルに塩、コショウ、そして刻んだニンニクや鷹の爪を加えて、火にかける。香りがオイルに十分に移ったら、マンボウの白身をごろりと投入し、中火でゆっくりと煮ていく。胃袋の鳴るスパニッシュな匂いが台所に漂う。

 

 

腸はやはり「モツ煮」がいいだろう。
しょうゆ・酒・みりんをフライパンに入れ、強火で一度沸騰させる。そこに白身と一口大に切り分けた腸を並べて、弱火で15分ほどグツグツと煮込んでいく。

 

 

こうして、非日常的な「マンボウ定食」が自宅のテーブルに鎮座した。

 

とりあえず湯霜造りに箸を伸ばす。視覚的な印象はおいしそうだが、さて。
口に運ぶと、まず訪れたのは弾力感である。体育館の上でバッシュが足音を鳴らしているような「キュッキュッ」とした歯ごたえが口内に響く。そして同時に、マンボウの味が開示される。
この弾力、この味、何かに似ている……、これは……、イカだ!

そう、マンボウの白身の味は、イカと実に酷似しているのである。「魚なのに味はイカ」とは、なんとつかみどころのない存在なんだ、マンボウ。

しかし、何度か噛むと、トーンが変わる。急に歯ごたえが消滅し、「ホロホロッ……」といった具合に身が崩れるのである。繊維が突然にほどけたような不可思議な食感である。すると突然にイカっぽさが薄くなり、本当に「マンボウの味」としか形容のできない独特なテイストが奥から淡く顔をのぞかせる。マジで動きが読めない。

 

 

アヒージョはどうだろうか。こちらもやはり最初はイカの食感である。オリーブやニンニクの風味をマンボウの水気がはじいているのか、湯霜造りの味の印象とほとんど変わらない。けっこうグツグツと煮込んだのに、味が染みていないのである。噛んでいくうち、やっぱり「マンボウの味」とおぼしき未知が口の中に水気と共にじんわりと広がっていく。
「おいしいのか、おいしくないのか」と問われるならば、もちろんおいしい。ただ、おぼろげなおいしさというか、本当につかみどころのない質感の味わいなのである。

 

 

では、腸はどうなのか。モツ煮を食べてみる。
もぎゅ、もぎゅ、もぎゅ……

こちらはさらに弾力が強く、牛や豚のホルモンを噛んでいる感じに近い。しかし、味は想像以上に淡泊というか、動物性の脂っぽさがまったくなく、「しょうゆ味のガム」といった感じである。しばらくして、イカに似た味が一瞬だけ立ち上り、そして消えていく。

その後に現れるのはやはり「マンボウの腸の味」としか言いようのない、静かで不可思議な旋律。音楽で例えるならアンビエントミュージック(※)といったところか。

 

※編集部注:アンビエントミュージック:「環境音楽」と訳される現代音楽のいちジャンル。「意識されない」という目的で作られており、落ち着いた雰囲気を持つ音楽が多い。

 

すべてを胃袋に収め、ぼんやりと天井を見上げながら、こんなことを思う。

「……いま、自分は本当にマンボウを食べたのか?」

なんだかキツネにつままれたような気分である。おいしかった気がするが、味の残滓がすでに記憶から消え去っている。突然に目の前に現れたマンボウが、ゆっくりと私の舌の上を旋回したかと思うと、スッと大海原の彼方に行方をくらましたような。マンボウ失踪事件である。
動きが読めない、つかみどころがない、ファクトチェックのしようがない、これがマンボウの味だというのか。

いや、違う。私はマンボウに詳しくない、ズブの素人だ。勘だけで湯霜造りやアヒージョやモツ煮にしてはいけなかったのだ。ちゃんとマンボウの識者にあれこれを尋ねれば、きっとマンボウの味の真核をつかむことができるはずだ。

私はすぐにネットを開き、マンボウの肉を再注文した。世にもまれなる「追いマンボウ」である。
そして、知人に連絡を取った。水族館の広報部署に勤めている知人だ。

「マンボウに詳しい飼育員の方を紹介してもらえないだろうか。話が聞きたい」

もはや取材の申し込みというより、捜索協力依頼みたいな口ぶりになっていた。やはり、これは失踪事件なのである。

 

 

数日後、私は東京池袋のサンシャイン水族館にいた。

 

 

館内に足を進めると、マンボウに出合える。大きな水槽の中で巨体を揺らしながら、ゆったりと漂っている姿は、やはり魅力的だ。皮膚の光沢がまぶしく、まるで鏡のよう。半開きの口が、ユーモラスな印象をたたえている。見れば見るほど、奇妙な魚である。

 

※展示入れ替えのため、2022年8月現在はタチウオを展示中

 

 

ちなみにサンシャイン水族館では現在、特別展「美味しくてすごい生き物展」(2022年11月6日に終了予定)を開催中であった。「食べる」という行為を通じての人間と生き物たちとの関わり合いをテーマに、オオグソクムシやナマズなどといった水生生物を中心に展示しつつ、飼育員さんたちがそれらを味わった際の食レポを添えるという、なかなかに意欲的な特別展である。そして私がいま未食を求めてやっていることと、そんなに変わりがない。サンシャイン水族館とは気が合いそうである。

 

 

通されたのは、サンシャイン水族館のオフィスの一室。そこで私からのヒアリングを受けてくださったのは、マンボウの飼育をかつてトータルで3年ほど担当したことのあるスタッフの鴨下(かもした)さんだ。「イルカのお姉さん」になりたくてこの業界の門をたたいたが、気付けば魚類の魅力に開眼、現在は自宅でもナマズを飼育中という、パブリックでもプライベートでもフィッシュにまみれた心強い識者である。

 

▲サンシャイン水族館飼育スタッフ 鴨下さん

 

あいさつもそこそこに、「鴨下さんはマンボウって食べたことありますか?」といきなり核心に触れる質問を投げかける。

「ないですね~」

しかし鴨下さんは過去にマンボウの解剖を体験したことがあり、その独特な肉質の感じはよく覚えているという。

「かなり繊維が多いですよね。食べてみてどうでした?」

逆質問され、マンボウの肉は水気を多く含んでいたこと、弾力性があるかと思えばすぐにそれが消えること、イカの味に似ている瞬間があったこと、そしてなによりも「他の魚では食べたことのない曖昧なおいしさ」であったことを伝える。

「なるほど……。マンボウって尾ビレがなく、だから一般的な魚と違って腹ビレと尻ビレを支える筋肉が発達していて、それを使って泳いでいるんですよね。水族館で見ているとゆっくり泳いでいる印象ですけど、実は速く泳ごうと思えば泳げる魚なんです。だから背中の辺りの肉は筋が多くて繊維状になっていますね。その他の部分はコラーゲンみたいにプニプニしていたはずです」

 

 

そうか、あの弾力感や繊維感の正体は筋肉であった可能性が高い。
ゆったりと泳ぐ印象のマンボウにそんなインナーマッスルが潜んでいたとは思わなかった。「筋肉=真っ赤」という先入観もあったため、白身に惑わされてしまっていたところもある。

「簡単にいえば、泳ぐ時に必要とする酸素量で赤身か白身かが決まるんですよね。マグロなんかは速く長く泳ぐから酸素を多く取り入れなきゃいけなくて、だから赤身になるわけです。逆にマンボウは基本的にはゆっくり泳いでいて、瞬発力はあるけど休んだりもする。だから白身なんですね」

 

▲特別展「美味しくてすごい生き物展」でも白身と赤身の説明が

 

マンボウの瞬発力というのは、案外にすごいらしい。特にエサを見つけた際のスピード感は目を見張るものがあるという。
「あと吸引力もすごいです。野生ではイカやクラゲなどを捕食しているのですが、口からぐわっと吸い込みます。水族館でエサを与える際は、飼育員は手を持っていかれないように気を付けていますね」

 

 

あの半開きの口元に、そんなパワーが潜んでいたなんて驚きだ。そして、そうか、イカを食べているのか。マンボウの肉がイカの味に似ていたのは、もしかしたら食性が関係しているのだろうか……? 

「うーん、それはなんとも答えられないですが……。水っぽい食感であったのは、実際にマンボウが多量の水分を必要としているからですね。あの巨体を維持するためには、やはり水分をためておかなきゃいけないのかな。海水とかエサから十分な水分が確保できないと、体がしわしわになっちゃったりするんですよ。ペラッ、としちゃうというか。そんな魚、他に見たことがないです」

やはり飼育員さんから見てもマンボウは奇特な魚であるし、水分量の多い魚でもあるらしい。
ん? ということは、水分を十分に抜いてから食べれば、「本当のマンボウの味」に迫れるということなのではないか……?
ここでひらめいた。干物だ。マンボウの干物を作って食べることが、このフードアタックの正解な気がする。

「うん、干物を試してみるのは面白いかもしれません。あ、腸はモツ煮にして食べたんでしたっけ? マンボウの腸って、大きいですよね」

鴨下さんが以前にマンボウの解剖をした時も、その腸の大きさ長さに「牛じゃん」と感想をよぎらせたそうである。

「内臓関係でいうと、マンボウってデリケートな魚なので、何かストレスを感じるとすぐに胃腸が荒れてしまうんですよ。飼育下ではけっこう慎重に健康管理をしてやらなければならない魚です。当館含め、水族館によっては人間と同じ胃腸薬を与えるところもあるらしいです」

聞けば聞くほど、マンボウとは未知性が高い魚であることがわかる。

「まだまだマンボウの生態は明らかになっていないことが多くて、『3億個の卵』の真偽もそうですし、他の魚と比べても都市伝説化しているエピソードがありますね」

例えばマンボウは水面で横になってプカプカと浮かぶことがある。「あれは皮膚の表面に付着している寄生虫を殺すために日光浴をしているのだ」という説が広がっており、英語でもマンボウは「サンフィッシュ」と呼ばれていたりもするのだが、実際にその行動が日光浴であるのかどうかはいまだに不明である。

「まあ、見た目が特異的な魚なので、エピソードにヒレが付いてしまうこともあるんでしょうね。フグの仲間の中でも、やっぱり変わっている存在ではあるので……」
 ……ん? ……フグ?

「ええ、そうですよ。マンボウは、フグです

そうだった、そういえば子どもの頃に図鑑で知って驚いたことがあったけれど、すっかりそれを忘れていた。マンボウは「フグ目マンボウ科マンボウ属」に分類される魚であったのだ。

「フグの仲間は、腹ビレを使って泳ぐのが特徴ですね」

そういえば、確かにマンボウはフグっぽい顔をしている。

 

 

フグは、おいしい。「ふぐちり」も「ふぐ刺し」も、私がここで述べるまでもなく、絶品と名高いフードである。

そうか。ということは、マンボウに対してフグ的な調理アプローチで臨めば、答えは導かれるのかもしれない。

鴨下さんにお礼を告げ、私は自宅へと舞い戻った。ちょうどのタイミングで、マンボウの肉が再び到着していた。

 

 

相変わらず、「肉塊」と呼ぶにふさわしい迫力である。

 

 

以前にフグ料理屋を訪れた際、私が最もおいしいと感じた調理法、それは天ぷらだった。
ということは、フグ目のマンボウも天ぷらにすれば、よりおいしくいただくことができるのでは……。
そんな推察から、マンボウの肉に衣ダネをまとわせ、油の中に投入していく。じゅわわわわー。小さな気泡を無数に浮かばせ、マンボウがカラっと揚がっていく。

 

 

 

そういえばフグはから揚げでもおいしい。なのでマンボウのから揚げも作ってみた。

 

 

そういえば、「どんな食材でも油で揚げれば、大体はおいしくなる」と以前に調理師をしている友人から聞いたことがある。衣と熱によって食材のうま味が凝縮されるからだ。しかしもちろん例外はあって、その食材に元々うま味や風味などが乏しい場合には、油で揚げても衣の味に負けてしまうと、その友人は唱えていた。

マンボウを湯霜造りなどで食べた際には、どこかうま味が「逃げて」しまっているような印象があった。お湯を通したり煮込んだりすると、マンボウが本来持っているはずの味が抜けてしまうのではないか。だから、油で味をzip圧縮保存することが最適解なのではないか。そんな仮説と期待も携えての調理である。

完成したマンボウの揚げ物たちを、さっそく口に運んでみる。
サクッとした衣の奥から、白身の歯ごたえが現れる。
この弾力、この味、何かに似ている……、これは……、イカだ!
そう、やっぱりイカなのである。
ただ、湯霜造りやアヒージョで食べた時よりも、「イカ感」が数倍強い。つまり、味が濃厚なのである。マンボウの真核としての味がギュッと詰まっている感じがある。やはりマンボウにフードアタックをかけるには、フグ方面から攻めるのがよい、ということなのかもしれない。

端的にいえば、かなりおいしかった。これは勝利宣言を叫んでもよいのではないか。
腸も揚げてみたのだが、こちらは「さっぱりとした牛カツ」のごとき味わいで、それはそれでなかなかに美味であった。駄菓子で魚肉のすり身に衣をまぶした「ソースカツ」的な品があるが、あれのグレードをグッと上げたような風味である。実際、ソースがよく合った。白飯のおかずというよりも、ゆっくりとお酒を飲みたい時のおつまみにちょうどいい感じがする。

 

 

しかし、それだけでは飽き足らず、マンボウの干物作りにも挑戦することにした。
塩水に15分ほど浸したマンボウの白身、それをザルに並べ、ベランダの日陰で扇風機に当て続ける。
弱風モードで臨んだわけだが、隣人にバレたらなんと説明しようか、ドキドキしながらの干物作りである。「あの人は夜な夜な、ベランダでマンボウを蒸発させているらしい」とか近所でプチ怪人扱いされたらたまったものではない。
普通の魚の干物であれば一昼夜もすれば完成するのだが、なにせ水分量が半端ないマンボウ肉である。干物レベルに乾燥するまで、およそ3日間を要した

 

 

おお、干物にすると、一気にマンボウ肉の印象が変わる。
グリルに投入し、中火でじっくりと焼いていく。

 

 

 

ふっくらとした感じで焼きあがったマンボウ干物。これはかなりいい感じなのではないか。
期待に胸を膨らませながら、その味を確かめてみる。

お、おお。こ、これは。

見た目は柔らかそうであったのに、噛んでみると弾力感がえぐい。天ぷらなどの時とは桁違いに歯をはじく。少し大げさにいえば、ゴムを噛んでいるみたいだ。
しかし、噛んでいくうちに、しっかりとした味が口の中へと広がっていく。

この風味、これは……、そうだ……、あれだ……、マンボウだ!

そう、干物によってマンボウの味のコア部分に肉薄した時、そこに現れるのは「マンボウの味としか形容できない」という例のアレだったのである。
そのありさまをなんとか別の例えで形容するのであれば、タラとホタテと鶏もも肉をミックスしたような、寄せ鍋的なうま味といったところか。それは、いままで食べてきた、どの魚の干物とも違う一種異様な風味であった。

 

ジャーキーと化したマンボウを噛みながら、その比類なき味をしっかりと舌に刻む。

ようやくこの味を捕獲できた思いだ。これにてマンボウ失踪事件は、とりあえず一件落着を迎えた。
マンボウは、どこまでも未知な生き物で、そしてどこまでも不思議な食材であったのである。

 

 

私の未食を巡る冒険は、これからも続く。
気づけばまん防は明け、春は遠くに過ぎ、真夏になっていた。 

 

                                   (了)

 

作った人:ワクサカソウヘイ

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ワクサカソウヘイ/文筆業。主な著書に『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫)、『ふざける力』(コア新書)などがある。ルポタージュとコントをフィールドに活動中。とにかく小動物がなつかない。

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